#05 “専門性がない”ことが、私の専門。経営を支えるプロとして歩み続ける

川原 真

医療機関が患者様に質の高い医療サービスを提供し続けるには、安定的で発展性のある組織経営が不可欠です。偕行会グループの専務理事・川原真は入職以来、病院経営に必要なマインドとは何かを考え続けてきました。追い風続きとは決して言えなかった中で培われてきた、総合職に求められる資質に迫ります。

医療機関のクオリティを支えるのは、適切な組織経営である

病院の発展には、優秀な“事務方”の力が必要不可欠である。

この言葉は、専務理事として偕行会グループの経営を担う川原真が、会長・川原弘久、そして師匠ともあおぐ元上司から引き継いできた、ゆるぎない信念です。

「病院の力」というと、患者様にとっては、医師や医療チームの技術の高さ、医療設備の充実などの医療のクオリティを指すもの。しかし質の高い医療サービスを持続的に提供しつづけていくには、事務方、つまり経営の力がなくては成り立ちません。

診療を優先するだけでなく、きちんと利益目標を立てて、次に何に投資をすべきなのか、そのためにどの時期にいくら資金調達が必要なのか、計画にのっとって組織を運営していく必要があります。

しかし、単に“金勘定”だけをしていればいいというものでもありません。たとえば医療機器ひとつ購入するにも、「資金がないからダメ」と短絡的に断じるのは早計。現場に赴き、職員とも話し合いを重ねて、必要ならば買う、採算がとれないならばどうしたらとれるようになるのか、じっくり検討を重ねていきます。

川原「私は入職した当時、経理に配属されました。パチパチとお金の計算をしていればいいんだと思っていたんですが、そうではなかった。当時の上司は、銀行との交渉に加え、各事業部の部長や事務長とのあいだに入り、会長と彼らの橋渡しもしていました。

こういう調整役がいるからこそ、病院の経営は成り立つんだと、とても印象的で。その時の経験が、今でも私の仕事への向き合いかたに活かされていますね」

川原の経営への姿勢には、冒頭の言葉をはじめ、これまで経験してきた様々な現場での仕事がすべて活かされているのです。

「公園で“ぼっち飯”」の新人時代から、知らぬ者はない存在へ

川原が総合職として偕行会グループに入職したのは1997年のこと。偕行会の創業家に生まれた川原でしたが、特に父親の跡を継ぐことは考えず、文系の大学に進学。就職についても、父であり会長の弘久からは「好きにしろ」と言われていました。

ところが、大学4年になって就職活動をはじめると、弘久から一本の電話が。「お前なあ、(偕行会に)来るのか来ないのか、はっきりしろ!」となぜか怒られることに。川原は若干腑に落ちないものを感じながらも、偕行会への入職を決めます。

川原「そのときは、自分は医療の資格を持っているわけでもないのに、なぜそんなことを言われるのか、わけがわかりませんでした。でも話を聞いているうちに、父が病院経営には事務方の力が大事なんだと話してくれ、納得できたんです。

その時、やるからにはなんでもやろうと決めました。周りには“ドラ息子”と思われるかもしれない。しかし、だからこそ立派なドラ息子になろう、組織に欠かせない人間になってみせようと」

ところが、いざ入職すると、なかなか世間の風当たりは厳しいものでした。

川原が初めに配属された偕行会法人本部は、当時、正社員3名の小所帯。事務員に「職員と顔なじみになれるように、病院でお昼を食べてきなさい」と言われ、徒歩2~3分の名古屋共立病院に向かうも、誰とも話すことができません。いたたまれず、近所の公園で寂しく“ぼっち飯”をかき込む日々が続きました。

職員のあいだに立つべき人間が、“ぼっち”のままでは困る……そこで、入職4カ月にして異動。こんどは名古屋共立病院の総務部に配属されます。

総務部には、様々な頼みごと、頼まれごとのために多くの人が訪れます。ここで川原も徐々に職員たちと顔見知りになり、交流を深めていきました。

「頼まれたことはなんでもやる」精神で、グループ内行事も司会から余興まですべて引き受けてきました。新入職員歓迎会では、新人の緊張をほぐすために、みずから手品を披露したり、幹部に鯉やチューリップのかぶりものをかぶらせたり。地域交流のソフトボールチームでもキャプテンを務めました。

川原「文句を言わず、なんでも全力でやれば、自分にとって必要な知識になるだろう、そういう貪欲さで食らいついていきました。ここでの経験は、経理だけをやっていたら見えなかったことだと思います。今の私にとって、血となり肉となっているんです」

こうして入職して3年ほど経った時には、川原は法人本部に戻ります。多様な経験を積んだ川原は、事業計画や財務の資料づくりを任されるようになっていました。

初めての「現場」で学んだ、医療の苦労と喜び

病院の総務部、そしてグループ本部の財務部で10年ほど経験を積んだ33歳のころ。グループの経営にも財務の立場から参画し、それなりに自信もついてきたところへ、その自信を突き崩すようなできごとが訪れます。名古屋共立病院の事務次長への異動です。

それまでも医療の現場としっかり関わりをもって取り組んできたものの、いざ現場で判断し対応するのは、まるで勝手が違うことを思い知らされたのでした。

川原「これまで本部でやってきたのは、ものごとをじっくり検証したうえで判断すること。でも、現場に行くと、その場その場で即座に判断することが求められます。これまで本部でいろいろ経験してきたことは、なんの役にも立ちませんでした。

さらに、当時診療科の管理部長達は、現場から上がってきた経験豊富な人間でした。その上の立場に、彼らより若く、現場経験の一切ない私がついてしまったんです。突き上げは相当なものでした。そこから信頼関係を築くのはけっこう苦労しましたね」

現場の経験がなにもない川原が、現場のスタッフと信頼関係を構築していくために大切にしたのは、“ギブアンドテイク”の考え方でした。

自分の立場は関係なく、わからないことは教えてもらう姿勢で取り組む。反対に、事務や運営の面で現場の面々が困っていれば、アイデアを出したり手助けをしたりするようにしていきました。

また、現場ならではの、かけがえのない体験もしました。

川原にとって特に印象深かったのは、糖尿病を患っていた外国人の患者様のこと。その患者様は、糖尿病の病状が進んで昏睡状態になり、無意識のうちに暴れてしまうという症状が現れていました。川原は医師や看護師とともに、患者様のケアに回っていたのです。

まだ医療現場の経験の浅かった川原は、わからないなりに、暴れる患者様をレントゲン室に連れていったり、危険を回避するために拘束の判断をしたり、懸命に対応。 すると翌日、その患者様は昏睡状態から回復し、退院していきました。見送りの際に、付き添っていた患者様のお兄様が、たどたどしく「ドウモ、アリガトウゴザイマシタ」とおっしゃったのです。

川原「たいへんな一夜だったんですが、そのたったひと言で、救われました。医療現場ってこういう喜びがあるんだな、どんなに大変でも患者様に感謝されることで救われるんだと実感した瞬間でしたね」

周囲の力を活かせる経営者になるために

名古屋共立病院の事務次長を1年2カ月務めたあと、川原は再びグループ本部の財務部に。部長として5年間務め、39歳で専務理事に就任しました。

専務になった川原が大切にしているのは「まずは任せてみる」こと。

川原「 “すべてにおいて二流”。私はいつも、自分のことをそう評しているんです。各事業部の管理者、部長、事業部長クラスの人間は私のところに相談にきます。でも、事業に関する高度な判断は彼らのほうが長けているわけですから、私の中途半端な知識ではなく、“後押し“がほしいわけです。上が承認して一緒に責任を取ってあげるという姿勢を示してあげれば、みんな思い切ったことができますよね。

私の知恵だけでは生まれてこないようなアイデアを、専門性の高い“一流”の人間にうまく知恵を出してもらうことで実現する。これが“二流”である私の役割だと思っています」

“二流”というのは川原がみずからを評して使う言葉ですが、総合職に求められるのは、何かひとつに突出した能力ではなく、周りの人間を活かしながらものごとを成し遂げていく力なのではないかと川原は考えています。それは「ゼネラリスト」と言い換えてもいいかもしれません。

なんにでも興味をもって、とりあえずやってみること。主体性をもって考え、行動に移すこと。ひとつできたからと満足せず、次に向かっていく姿勢を持ち続けること。総合職の職員には、こういった意識をもって仕事に取り組んでほしいと川原は考えています。

川原「若いうちは、業務は与えられたものですが、たとえばもっとうまい方法がないのか、考えてみる、提案してみるというのが、主体性をもってやるということです。日々考える癖をつけることで、1年後、5年後の成長が変わってくると思います。

総合職の職員には、いずれ経営者をめざすというマインドで取り組んでほしいです。私自身も、偕行会グループで最終決裁ができる人間になるには、もう1ステップ、2ステップ成長しなければと思っています。やるからには上をめざしてほしいですね」

患者様の命と健康を守る最高の医療機関であるために、経営を支えるプロとして。川原は職員とともにさらに成長していこうと歩を進めています。

取材日 2018.3 Text by PR Table